奇跡の車両の清掃活動を終えたツアー一行がつぎに向かったのは
かなり報道もされた津波対策のモデル地区とされていた
” 田老の万里の長城 ” と言われた高さ10mの防潮堤です。
この堤防、堤のうえでこうやって見るとそんなに高くなくにカンジますが
それは自重で踏ん張れるように傾斜がゆるやかなため。
真下から見るとこんなに高い堤なのです、あたりまえですが。
真上から見下ろすと観光バスがこんなに小さく見えます。
また、瓦礫は震災から半年たったいまではほぼ処理され
逆になにもなくなったサラ地が不気味さを放っている・・・
なぜか?
田老地区の過去の津波被害データは明治29年に14.6m
昭和8年に10.7mいう高さで津波があったということです。
この事実から海岸線にX字型を描く防波堤が築かれたのですが
こういったデータがありながらなぜそれより低い堤が造られたのか?
それはこれいじょう高い堤を築けばこの地区は湿気が抜けなくなり
人が住めない地区になってしまう。
なので妥協点として高さ10mという堤が造られたのだそうです。
過去の津波は10mを越えているのになぜ?
この高さにしておけば津波が来てもすぐには被害はない。
だからここまでの津波が来たら水に飲まれる前に避難しなさいよ。
という ” 防災 ” ではなく ” 減災 ” という考え方で造られたのだそうです。
悪く言うと地域が水に飲まれるまでの ” 時間稼ぎ ” として。
まあ、それでもここまでは正論かもしれません。
そして今回は187人。 高さ10mの防波堤の効果はありました。
がしかし、この187人は死ななくてすんだ187人。
というのは、地域の住民には10mの防波堤は時間稼ぎなんだよ、
水が来たら飲まれるまで時間がすこしあるから
その間に逃げれば助かるんだよ。
と、いうことが知らされていなかった!!
どこでも報道されていない事実です。
地区の年寄りのなかには、” あの防波堤があるから・・・ ”
と、安心して逃げずにいて水に飲まれて亡くなった方がいたと。
ツアー一同、その現場でその話を聞き
なんともやりきれない怒りをカンジながら地区を後にしたのでした。
その後、ツアーはその日の最終目的地、津波で消滅してしまった
島越駅(しまのこしえき)に向かいました。
津波はそこまで行きましたが防波堤にエネルギーは弱められ
なんとか線路も駅舎も残り、この駅を含む小本~宮古間は
三陸鉄道北リアス線の部分運行も続いています。
そういった点でいえば減災の効果はあったわけで
だからここまで避難していればひとりも死ななくてすんだのでは・・・
さらにはその先にあった赤沼さんの自宅も流されたということです・・・
外側の防波堤は決壊してしまいましたが・・・
-----------------------------------------------------------
こちらのページもぜひ見てみてください。
( こんかいのツアーについて真摯な記事を書いています。)
( ツアーに同行した記者さんがアップした正確で詳細な記事 )